大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和37年(ネ)2863号 判決

控訴人(原告)

旧姓佐藤こと

穴沢玲子

右代理人

渡辺卓郎

他一名

被控訴人(被告)

関拾七

右代理人

高木廉吉

他一名

主文

原判決を取り消す。

被控訴人は、控訴人に対し別紙物件目録記載の建物を明け渡し、かつ、昭和三四年一二月二〇日から昭和三五年一一月二日まで一ケ月金一、二一九円、同年同月三日から昭和三八年三月二二日まで一ケ月金一〇、〇〇〇円、同年同月二三日からみぎ建物の明け渡しの済むまで一ケ月金一一、一〇〇円の各割合による金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

この判決は、被控訴人に対し金銭の支払を命じた部分について、控訴人において、担保として金一五万円を供託するときは、かりにこれを執行することができる。

事実

控訴人訴訟代理人は主文第一項から第三項までと同旨の判決および仮執行の宣言を求め、被控訟人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求め、なお、控訴人訴訟代理人が当審において拡張した請求部分につき請求棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張および証拠<省略>

理由

一係争の建物がもと訴外井沢政頼の所有に属したこと、みぎ建物について井沢政頼から層本正雄に対し所有権移転登記手続がなされたこと、後に昭和三四年一〇月二〇日にみぎ正雄の親権者母として法定代理人である岡本みちの代理人名義の岡本秀弥において、正雄を代理して、みぎ建物を訴外宮沢栄に売り渡したものとして、その旨の所有権移転登記がなされ、さらに宮沢栄は、これを同年一一月四日に控訴人に売り渡し、その旨の所有権移転登記がなされたことは、当事者間に争いのないところである。

二さて控訴人は、「係争の建物の所有権の帰属について、まず、正雄において井沢から買い受けたものであり、若し正雄でなく茂雄が買い受けたものであるとすれば、当時直ちに茂雄から正雄への贈与が行われたものであり、いずれにしても、正雄においてその所有権を取得したものである。そうして、宮沢、ついで、控訴人は、正雄からの伝来によりその所有権を取得した」と主張する。よつてまず、前判示の正雄名義による所有権取得登記および正雄から宮沢への所有権移転登記がなされた経過およびその間における事情については、<証拠>をあわせ考えると、つぎのような事実が認められる。

茂雄は、長野市内において、その父のあとを継いで、骨重古物商としての一生を送り、本訴が当審に係属中の昭和三八年七月三日に満六二才で死亡したが、妻との間に長女みち(大正一〇年一〇月二一日生)と二女静子とをもうけた。みちは、戦時中長野市に駐屯した陸軍部隊に雇われているうち、同所に勤務の陸軍曹長の輝男と想思の関係を生じたので、昭和一八年一〇月頃に茂雄は、輝男を婿養子とし、みちと婚姻させ、二人の間には、長男正雄(昭和一九年三月二一日生)および二男光男が出生した。しかし昭和二四年頃にみちが胸を患うと、輝男は、みちの許を去り、昭和二六年三月二〇日に正雄および光雄の親権者をみちと定めて、協議離縁離婚の手続をした。正雄は、弟光雄が生れた頃から引き続き祖父茂雄のもとで養育されて今日に及び、みちが入院療養中は、光雄も茂雄のもとに引き取られていた。その後みちは、入院中に知り合つた秀弥と夫婦関係を結ぶようになり、主として福岡県下に同棲したが、秀弥は、後に昭和三五年七月二五日に東京で自殺した。このようにして、みちの二度の夫婦生活のきつかけは、いずれも茂雄の同意を欠いていたのであるが、先夫輝男が終戦とともに勤務先を失つたうえ、養親である茂雄の生業になじめなかつたことも原因で、輝男夫婦と茂雄との折り合いが終始よくなかつた。みちと後夫秀弥との夫婦関係は、必ずしも悪くなかつたが、その間の昭和三四年四月六日付の婚姻届は、みちの不知の間に秀弥が岡本姓を名乗ることとして届け出でがなされた。なお、茂雄の二女静子は、長野県の警察官である被控訴人に嫁している。

以上のような生活環境のなかで、茂雄は、戦前から長野市大門町に店舗と住宅を構えていたが、別に昭和二〇年八月始めに井沢政頼との間に本件係争の建物を買い受ける交渉をし、さらに昭和二三年頃新井昇との間にみぎ建物の敷地を買い受ける交渉を遂げて、自らそれぞれの代金を支払つた。また、その頃に同市横町の建物と上田市所在の農地を買い求めた。そうしてそれらの登記については、大門町の建物のみを自己名義としており、横町の建物を二女静子の名義で、上田市所在の農地を妻名義で登記手続をし、係争建物のほかその敷地については、前判示のとおり、孫である正雄名義で登記した。そしてみぎの登記をするについてはその手続上幼児である正雄につき法定代理人による代理の形式によつていないのであるが、このとき、新井は、未知の茂雄を正雄その人と信じて、売買の交渉および登記手続をし、井沢は、茂雄との間に売買の合意が完結した後に、茂雄の意向の那辺に存するかを知らないまま、孫の名にしたいという同人のいうままに、正雄名義での移転登記手続に協力した。茂雄は、これら不動産のうち大門町の家屋を昭和二五、六年頃に売却したが、他を持ち続けて、その後自らは、横町の建物に居住し、本件係争建物には当初みち輝男を、ついで昭和二七年一月頃被控訴人夫婦を、さらにみちを住わせ、みちが秀弥のもとに去つてからは、昭和三四年一月頃再度被控訴人夫婦を入居させ、ほぼ時を同じくして二階部分を訴外青木裕に賃貸した、その間茂雄は、その公租公課火災保険料等を支払い、玄関門と物置とを新しくし、勝手を改築するほか、屋内造作と庭木の手入れなどもしている。

そうしてこれからは、本件の紛争が起るに至つた背景である。みちと秀弥との福岡県下での共同生活は、その糊口とする靴の行商に資金を要して苦しいものがあり、同人らは、長野市に来て茂雄に対し借金を申し入れたところ、茂雄は、これを断つた。しかるに、本件建物とその敷地とが公簿上正雄の所有名義となつていることを知るみちは、茂雄不知の間にその意に反して権利証を持ち出したうえ、これを秀弥に交付し、秀弥は正雄の法定代理人で母であるみちの代理人名義をもつて、これを正雄の所有に属するものとして宮沢栄に代金五〇万円で売却したものである。

以上に認定したところは、係争不動産に関する権利の帰属を考えについての背景である。よつて、以下当事者双方の主張の当否を判断しよう。係争建物等について井沢または新井からの登記簿上の買受人名義が正雄であることは、前判示のとおりである。しかしその手続のなされた昭和二〇年または昭和二三年頃に、昭和一九年生れの幼児であつた正雄が自ら売買契約をなし得ないことは、いうまでもない。ところが茂雄において、当時正雄の親権者であつた父輝男または母みちをして、茂雄に正雄を代理する権限を与えさせたうえで、茂雄が正雄を代理して、井沢または新井との間に売買を合意したわけでないことは前判示のとおりである。そうして、輝男みち夫婦およびその子正雄を含む岡本家の世帯において、その柱であつたのは茂雄であり、井沢または新井との間に係争の建物等についての売買の交渉をしたものは、茂雄その人にほかならず、支払代金を手交した人も、その経済源も、茂雄をおいて他になく、井沢または新井らにおいても、合意の相手方としての茂雄のみを意識していたことであり、みぎ物件の維持管理も専ら茂雄においてなして来たものであることも、前認定のとおりである。こうした事実のもとにあつては、他に別段の事情の認められない限り、買受人についての公簿上の名義が正確であること、ないしは、茂雄とみち夫婦との折り合いが悪くて、将来とも茂雄がその財産を同人らに相続させる意思なく、ただ幼時から手塩にかけた孫正雄を愛していたことだけをもつて、茂雄が井沢または新井との間において同人らから正雄への係争建物等についての権利を移転させる趣旨の合意を遂げたとの事実を確認することも、相当でない。してみれば、もと井沢または新井の所有に属した本件建物等は、被控訴人の主張するとおり、みぎ同人らとの間の売買によつて、茂がその所有権を取得したものというべく、これに反し正雄が直接承継取得し、ないし茂雄と井沢または新井との合意の効果として取得するいわれもないから、正雄が直接に井沢から係争の建物を買い受けた旨の控訴人の主張は、失当である。

三つぎに控訴人は、前示の正雄の買受名義による登記と同時に、茂雄から正雄へ係争物件について贈与による、または信託の目的による譲渡が行われた旨を主張する。しかるに、本件にあらわれた限りの<全証拠>のいずれによつても、茂雄が係争物件についての登記手続をするに当つて、これらの物件を直ちに正雄に贈与する旨を約し、かつその履行のために中間省略登記をする趣旨において、前示の登記手続をする旨を約したことを推認させるに足る資料を見出すことができない。かえつて、みぎらの証拠によれば、茂雄の資産と、その親族名義の顕名に関しての茂雄および関係者の意向については、つぎのように考えられる。茂雄は、自己の資産を管理するについて自己の名のほか、親族の名を一存で冒用することがあつたが、かつて生前において、ないしは、自己の死亡を条件としてこれを贈与する意図なく、また現にそのような意思表示をしたこともなく、時に利ありと考えれば、これを処分したい意図もあつて、買受希望者との間に売り渡しの条件について交渉、応待などした。茂雄が一存で親族の名を用いるについては、事後にそれらの者にその旨を告げているが、さりとて、当該親族をしてこれを自己の権利として処分することを認めない旨の念を押しており、茂雄は、みちに対しみちおよび輝男を信用しないゆえをもつて、係争物件を正雄の買受名義で登記した旨を話しながらも、みちに対しては正雄にやると述べたこともさらになく、みち自らも正雄が貰つたものとは考えていなかつた。そのゆえにみちは、後に茂雄の意に反して、その不知の間に権利証を持ち出したものである。そうして茂雄がみぎのように親族の名を藉るのは、資産がすべて茂雄の名において課税の対象とされることを避けようとする意図に出たものであつた。みぎに認定し得たところから考えるに、係争物件についても、茂雄が井沢または新井から所有権を取得すると同時に、直ちに控訴人の主張するように、これら物件の所有権を正雄に移転したことを肯認させるに足る事実を認めることができない。

さらに控訴人は、茂雄と正雄との間において、係争建物の所有権移転に関する通謀虚偽表示があつたと主張する。ところで上来判示した事実関係のもとにおいては、茂雄と正雄自身との間においてはもとより、正雄を代表する父母と茂雄との間に所有権移転を仮装する合意がなされたことを認めるに足る資料がないから、正雄を係争建物の買受人名義とする登記があるからとて、厳格なる意味においてのいわゆる虚偽表示があつたとすることはできない。しかし、本件において正雄を買受名義人とする所有権移転登記は、茂雄が自己の意思にもとずいて作出したものであることは、前判示したところから明らかである。若し茂雄が正雄の法定代理人と合意のうえで前示のような登記をなしたとすれば、それは茂雄が一旦井沢から自己に所有権移転登記を受けたうえ、正雄の法定代理人との通謀虚偽表示により更に正雄に所有権移転登記をした場合と実質上何らえらぶところがなく、この場合に民法第九四条第二項の規定が類推適用せらるべきものであるとするならば(最高裁判所昭和二九年八月二〇日判決、判例集八巻八号一五〇五頁の判旨)、さらに一歩を進めてたといみぎ正雄名義の登記がなされるについて正雄の法定代理人の関与がなかつたとしても、みぎのような登記簿上の外観を信頼して正雄との間に取引関係に立つた第三者があるときは、やはり前記民法の規定を類推適用しかかる善意の第三者に対しては亡茂雄の相続人らは勿論、後記のとおりみぎ建物を現に占有する被控訴人はこの外観に反する茂雄の権利の存続ないし正雄の無権利を主張し得ないものというべきである。

四  五<省略>

六以上に説明したところによつて、控訴人の被控訴人に対する本訴請求は、すべて正当である。よつて、これを排斥した原判決は、失当であり、これに対する控訴は、理由があるから、民事訴訟法第三八六条、第九六条および第八九条、第一九六条建物の明渡しを命ずる部分については、仮執行を相当でないものと考え、これを付さない。の各規定を適用して、主文のとおり判決する。(裁判長判事岸上康夫 判事中西彦二郎 室伏壮一郎)

別紙、物件目録<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例